粘液の分子生物学

腸の粘液は腸管免疫で重要。「粘液の減少が潰瘍性大腸炎の原因」という説もある
粘液を産生するのは腸の上皮の杯細胞。杯細胞の機能不全は免疫異常の原因になる。
印鑑細胞癌をはじめ高悪性度癌は粘液癌であり「過形成ポリープ(杯細胞由来)」が起源である
これらの癌はMSI陽性で抗原性が強いが、粘液が癌が免疫から逃避するのに関係している可能性がある

粘液細胞(=杯細胞)も非・粘液細胞(=吸収上皮細胞)も同じ幹細胞から分化します。この分化の分子機序を解明することが「粘液癌・非粘液癌粘液癌」の発生機序の解明につながります。



粘液癌・非粘液癌の遺伝子変化は下記のようになりますが、これらは「分化のマスター遺伝子」ではありません。
非・粘液腺癌 腺腫由来   遺伝子変化=APC,KRAS,p53  
 粘液腺癌  過形成ポリープ由来  遺伝子変化=BRAF,CIMP、MSI  

「分化のマスター遺伝子」はAtoh1とNotch/Hes1で、この両者のバランスで細胞の分化が決まります(2020年文献)。



これを詳細に記載すると以下のようになります(2021年文献


興味深い点は、この「分化のマスター遺伝子」が大腸癌発生の鍵であるWNT(APCやGSK3)と複雑に関連しているという点です(2020年文献)。



このような粘液の研究は次の3点で臨床的に重要な意味があります

)癌の起源(cell lineage)の解明
)分化誘導による癌の治療

)癌免疫との関係


)癌の起源(cell lineage)の解明
前癌病変(ポリープ)を切除して大腸癌を予防するという戦略では、癌の起源は何か?を解明することが基本になります。最初にここを誤ると「敵を間違えた攻撃」をすることになります。
上記のように杯細胞は「Atoh1強発現」という特徴があります。これは過形成ポリープやSSAP、印鑑細胞癌などの粘液癌にも見られます。この事から、これらの粘液の多い腫瘍は「杯細胞が腫瘍化した」と予測するモデルが2006年に出ています(文献中にあるHATH1とAtoh1は同一です)。

)分化誘導による癌の治療

Atoh1は粘液細胞への分化を誘導し細胞生存を助けますが、逆に非・粘液細胞に対しては細胞死(アポトーシス)を誘導します
逆にNotch/Hes1は非・粘液細胞への分化を誘導し細胞生存を助けますが、逆に粘液細胞に対しては細胞死(アポトーシス)を誘導します
このバランスで需要に対して適切な細胞配置を行う訳です。
例えば無菌状態のマウスでは腸の粘液バリアーは不要であり、腸の上皮が全て吸収上皮に分化するのが最も生存に合理的です。Hes1、Atoh1が起きて腸の細胞が吸収上皮優位になります。有菌的な環境に戻すとHes1、Atoh1が起きて粘液バリアーが構築されます(2021年文献;vital role of microbial colonization in goblet cell development and maturation)。

この事実から「Notch/Hes1を強化することで粘液癌を治療できるかもしれない(2018年文献)」あるいは「Atoh1を強化することで非・粘液癌を治療できるかもしれない」というアイデアが出てきます。

)癌免疫との関係
大腸癌免疫は空間的に異なる二つの局面(免疫Hub)に分けて考えるという意見が最近、報告されています(至極当然の話で、今までは技術的に困難だったのが可能になっただけの話です)。「腸管の上皮面(腸内細菌や便に面している部分)で起きている炎症反応Hub」と「腫瘍組織の深部で起きている特異的免疫Hub」の二つです(下図)。


(Spatially organized multicellular immune hubs in human colorectal cancerより)

「腫瘍組織の深部で起きている特異的免疫Hub」だけでは十分な免疫は起きません。何故なら(1)癌細胞が表面に癌抗原をクラスT提示しても免疫を誘導できない。一度、樹状細胞に死骸を貪食されなければ免疫を誘導できない(2)炎症反応を伴わない細胞死(アポトーシス)では自然免疫を刺激するPAMPが放出されない、からです。

十分な免疫誘導には腫瘍細胞の炎症を伴う壊死(腸管上皮面で起きている炎症反応Hub)が不可欠と考えられています。壊死によりミトコンドリアなどのDamage-associated molecular patterns (DAMPs) が放出され、これが免疫系を刺激します(ICD=immunogenic cell death)。

予想された話ですが、大腸癌のICD(=immunogenic cell death)には腸内細菌が深く関係しています(2020年文献)。それなら、当然、大腸癌表面を被う粘液も深く関係しているはずです。粘液癌はMSI陽性で本来は抗原性が強いが、粘液が癌が免疫から逃避するのに関係している可能性がある訳です。免疫チェックポイント阻害剤でMSI陽性癌への免疫が誘起されるように、粘液産生を抑制することでICD(=immunogenic cell death)を誘起出来るかもしれません。